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Beauty Source キレイの魔法

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エリック1878『幼子』

エリック1878『幼子』

「エリック、エリック」
このところ、またあの声が聞こえるようになってきた。
母への思いは、あの燃える火と共に完全に決別したはずなのに。
もしかしたら、彼女ではないのだろうか。
ルチアーナ、それとも、ペルシアで私を拒絶した少女?

ただし、私はもう以前のように、みだりに阿片に手を出したりはしない。
インドでただ一日、あの痩せこけた男から学んだ手法が、
精神を乱すものを追い出してくれるということに気づいたからでもある。
このほの暗い、ときにどうしようもなく孤独感にさいなまれる隠れ家で、
闇に光を見い出して気ままに絵筆を振るい、
魂の赴くままに五線紙にメロディを落とす前の準備にも、
あの手法は充分に役に立っている。
クレアの指導のもとにある踊り子たちの、舞台前の波立つ気持ちを落ち着かせるにも。

そしてもうひとつ、このところ、私の気を紛れさせてくれるものが、
クレアの元にいる踊り子のひとり、グスタフの娘を導くこと。
彼女がこのところ、めきめきと力をつけてきている。
オーステンドで歌を聞いたときから、並々ならぬ才能の萌芽を感じ取ってはいたのだが、
彼女の母に似たメランコリックな精神的弱さからして、きちんと目をかけてやらねば
たちまち、夏の果実が秋の風を受けるように干からびてしまうだろう。
シシーやバイエルンの方のこのところの行状が、私のように世間から隔絶された者の
ところにまで入ってくるほどに、あの、どうしても誰かの庇護を必要とする脆弱さは、
彼女の上にも、すでに見え隠れしているのだから。

「クリスティーヌ、またお前は、夜風に当たってのどを痛めてしまったのだね。」
少し苛立った声で、私はレッスン室にやってきた教え子を叱る。
「申し訳ありません、音楽の天使。どうぞ私をお見捨てにならないで。
ここにいると息が詰まって、どうしても外に出たくなってしまうのです。」
「確かにここは風も吹かぬ、潮の香りもせぬ。
海辺で育ったお前にとって我慢ならないときもあろうが、
目指すべきものがあり、才能を与えられた者は、その大きさに従がって、
常に何かを犠牲にしなくてはならないのだよ。」

教え子は小さくなり、涙ぐんで尋ねた。
「私に才能なんて、あるのでしょうか?」
「疑ってはならない。自分を疑うことは、私を疑うのと同じことだ。
お前は私が信じられないのかね?父が遣わした、守護天使を。」
「いいえ、いいえ、信じます。」
「では、もう二度と、自分を疑う言葉は口にしないように。」

のどを治す処方を教え、ボックス案内人のマダム・ジリーから、
夕方に薬を受け取るよう指示して、早朝のレッスンを中止する。
クリスティーヌはうなだれて部屋を出て行った。
すぐに私は、オペラ座に張り巡らされた裏通路の最短距離を辿って
忠実なボックス案内人の控えの小部屋に向う。

ルイーズは心得たとばかりに指定した薬草を揃えて戻り、
私は昼前にはのどと美声のための妙薬を調合し終わった。
そのワインレッドの水薬は、五番ボックスの秘密の隠し蓋を通して、
クリスティーヌのもとに届けられることだろう。

キリストの祝福を受けた娘に、神を信じぬこの私が庇護を与えるなど、
考えてみれば皮肉なことだ。

ああ、それだから聞かせようとするのですね、あの声を。
無駄なことです。あなたはいつも、私に背を向けてきた。
だから私も、あなたに背を向けることにきめたのです。
与えるように見せては裏切るあなたを。

引き戻そうとなさるなら、今のうちです。
ただし、それも無駄に終わることでしょう。
私はあなたと、全面的に闘い、勝利をおさめる。
彼女はもうすぐ、完全に私の手を取ってしまうのですから。

2006.02.20


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